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Love and Marriage

恋愛・結婚

 

恋愛と結婚

「恋愛」と「結婚」は全く別のものです。

現代では、恋愛を経て結婚に至るケースが多いようですが、それは純粋に恋愛をしているのではなく、結婚を意識して、結婚の条件に合う人の中から好きになれる人を選んで恋愛をしただけのことです。

ただただ好きになり恋愛に至ったとしても、途中で互いの結婚条件に合わなければ別れるはずです。それでも目をつぶって結婚に至ったとすれば、いずれは破綻を招くだけ。あるいは運勢を落とすこともあります。

恋愛は、お互いに相手のことを純粋に「好き」であれば成立します。そこには老若男女の区別もなく、また職業や肩書なども関係ありません。恋愛はその人自身の純粋な心のあり方で、精神的なものです。そして親兄弟など関係なく、「一対一」で付き合うのが恋愛です。

しかし結婚は「家」と「家」、「家系」と「家系」の結び付きです。家同士が納得し、祝福して初めて男女が一つ屋根の下で暮らし始めることができるのです。そして男の子が生まれて結婚は完成します。

また結婚は互いの親兄弟・親戚まで付き合わなければなりません。結婚は現実であり、未来に繋ぐ役目も担わなければなりません。

そして男女は人間としては同格ですが、夫婦となればそれぞれに役目が生じてきます。そして家族という小集団を形成すれば、その中で上下関係が生まれます。

結婚は夫婦で一つの目標に向かって歩まなければなりませんが、恋愛はその必要はありません。嫌になれば別れて、また新しい恋をすればいいだけのことです。しかし今現在の恋愛を究極のものにしたいと考えたならば、その時は二人の未来を絶つしか方法はありません。それが究極の恋愛です。

現代のように恋愛の延長で結婚に至るのは、ある意味「真の恋愛」ではないということです。純粋な恋愛ではなく、打算で恋愛をするから結婚に至れるのです。

また同棲も結婚と同じです。紙切れ1枚を役所に届けるのが結婚ではありません。同棲は婚姻届けを出さないだけで、男女が共に一つ屋根の下で暮らすわけですから、結婚と同じです。そして結婚は、添い遂げることが理想です。添い遂げられず、一人が何度も様々な人と結婚・離婚を繰り返せば、バランスが崩れます。そのバランスが崩れた分は、「因縁」という形で子孫にツケが回るようになっていきます。

 
 

なぜ恋に臆病なのか

人は誰でも恋をすることができます。なのに避けて通ろうとする人がいます。なぜ・・・? 怖いから・・・? 傷つきたくないから・・・?

現代日本は、過保護に育てられる傾向が強いからなのか、精神的に幼い人が多いようです。いつまでも子供のままでは、恋もろくにできないのは当たり前。

最近では反抗期すらない人がいるようですが、反抗期を経験しなければ大人にはなれません。そして20歳前後で人は自立できるようになっているのです。

しかし自立できる環境でありながら自立しない、あるいは親が足を引っ張り自立させなければ、精神は未熟なままです。おまけに何不自由なく暮らし、30歳過ぎても実家暮らしをしていれば、自分の運勢すら稼働させることはできません。「恋」なんてはるか遠くのものでしかないのです。

子供の頃から挫折をしない、あるいはさせない環境で、反抗期すら経験せず、実家暮らしが楽だからいつまでも実家に寄生し、親もそれを喜んでいれば、一生大人にはなりきれません。当然「恋」の対象にすらされないでしょう。

年相応に精神的に大人になれて、経済的にも自立できていれば、何の躊躇もなく恋はできるはずです。そして傷ついたとしても、それを糧にできるのが大人。

恋に臆病なのは、自分の人生すら稼働させていないからです。

後の祭り

結婚をしても、簡単に離婚をしてしまうこのご時世。最近では熟年離婚も増えてきています。

子供が自立して、夫婦二人の生活が耐えられない・・・。子供ももう大人。今更親の離婚が子供に影響を与えるわけがないと・・・。

親子である以上、いくら大人になったからといっても、全く影響がないわけではありません。親が離婚をすれば、子供も離婚に至るような結婚をしてしまいます。あるいは結婚をしない生き方になることもあります。

結婚は家と家の結びつき。そして結婚をするということは、その家系の流れの中に納まり、次に繋ぐ役目があります。そのため結婚をした以上は、個々の感情だけで簡単に別れたり、また別の人と再婚したりしていると、家系の流れがスムーズに流れません。流れるものが流れないということは、当然そのツケが回ってきます。自分の未来となる子や孫に・・・。

家系の流れが澱み濁っていれば、家系の未来はありません。もしそんな環境の中から生まれてきたとしても、明るい未来はありません。家系を閉ざすために犠牲になるだけです。

結婚した頃から「離婚」を考えていたとか、子供がいたから辛抱したとか、そんなことを言う人がいます。しかしそんなことは結婚する前に分かっていたはずです。

本当に相性が良ければ、最初から「離婚」なんて文字は浮かびません。

どこかで、この人と結婚をすればお金に困らないとか、世間から良く見られるとか・・・。心は二の次。それに今結婚しないと・・・と焦ったりして・・・。

一生のことを目先の損得だけで決めてしまえば、後は辛いことが待っているのは当たり前。相性が悪ければ、心のどこかでブレーキがかかるはずです。なのに心を無視して打算で結婚をするから苦しむのです。

そんな結婚をしてしまえばそこで終わり。後の祭りです。

還暦を前にやっと離婚ができるなんて思うのは大間違い。結婚をする前に自分の心に問わないと・・・。

結婚をするということは、「家」を背負う・「家系」を背負うということです。

結婚を夢見ている人・これから結婚をする人は、打算で結婚はしないことです。精神が伴わない結婚は悲劇を招くだけ。そして自分だけの責任では終わらないということです。

 

悲惨な結婚

「赤龍運型」という女性だけの運型があります。別名「色情因縁の運型」とも言います。

これは昔であれば、遊女や売春婦、現代では風俗など“性”を職業とする女性が入りやすい運型です。また風俗などとは全く関係ない普通の女性でも、この運型に入ることがあります。

この運型に入る女性は、色情因縁を持って生まれてきています。色情因縁は、先祖5代の中で何代かが再婚をしたことで発生させる因縁です。

そしてこの運型に入ってしまえば、年齢を重ねるにつれ老いる自分が怖くなり、精神不安を起こしてしまいます。酒や薬におぼれ、極まれば自殺に至ることもあります。

ではなぜ普通の女性がこのような末路を辿らなければならないのでしょう?

それは最初の男性、あるいは最初の結婚で決まります。

色情因縁を持って生まれる人は純粋です。そして完全愛を求める傾向が非常に強く、結婚に至るにしても、恋愛を経ての結婚となります。

しかしその結婚が相性の悪い結婚であれば、赤龍運型の入り口に立ったような状態になってしまいます。

お互いに愛し合っているから結婚をしたのに・・・。しかし相性が悪ければ、徐々に心が満たされなくなっていきます。夫を愛し、完全愛を求めようとすればするほど虚しくなっていきます。

満たされない心を埋めてくれるのは夫ではないと悟った時、別の男性を求めるようになっていきます。そして再び相性の悪い男性と再婚をしてしまい、最初の夫に求めたように次の夫にも完全愛を求めてしまいます。しかし最初の夫と同じで心は満たされません。満たされないままでは同じことの繰り返し・・・赤龍運型に入ってしまいます。

何度結婚をしても虚しさからは逃れられません。むしろ空虚感は大きくなるばかりです。それを紛らわそうとしてアルコール中毒になったり、薬に手を出したりしてしまうのです。結局精神を病み、自分の肉体を傷付け、命までも絶とうとしてしまうのです。

色情因縁を持っているから、相性の良い相手とはめぐり逢えないとも言えるでしょう。そして相性の悪い結婚ほど、悲惨な結果を招いてしまうのです。

 

100年前のスキャンダル

「命を懸けた恋」だったのか・・・?

スペイン風邪で命を落とした島村抱月。その2ヶ月後に自ら命を絶ったパートナーの松井須磨子。

松井須磨子は二度の離婚歴がある新劇女優。そして彼女の下へ走ったのは妻子ある劇作家で演出家の島村抱月。

坪内逍遥が主宰する「文芸協会」の看板女優と演出家のスキャンダルは世間を騒がすことになり、二人は「文芸協会」を離れ、「劇団芸術座」を立ち上げることになります。

この二人は決して相性が良いわけではありません。むしろ悪い相性です。

男女が惹かれ合う・・・それは相性がとても良いか、とても悪いかです。妻子がいても家庭運の悪い抱月にとって、須磨子は“渡りに船”だったのかもしれません。日干同士のみが惹かれ合う二人、これが仇になりました。

公私共にパートナーとなった二人ですが、運勢的には最悪です。仕事まで一緒だと、足の引っ張り合いにもなりかねません。

二人が立ち上げた劇団の運勢は順調だったものの、当時流行っていたスペイン風邪に須磨子が掛かり、看病した抱月がスペイン風邪で命を落とすことになりました。

二人の関係は「旺気刑」。上り詰めた時に壊れます。まさに空中分解。

「抱月と同じお墓に入れてください。」と遺書にはあったそうですが、それは叶いませんでした。

自ら命を絶たなければならないほどピュアな恋愛だったのかは疑問です。生活を共にしていても、抱月には妻子がいたまま。その妻に勝てるのは、死して彼の下へ行くのみ・・・。

日干支が大半会、しかも大運天中殺となる後天運。あの世にさらわれてしまったような死に方でした。