星の連結

Star connection

頑固とは・・・。貫索星(かんさくせい)

頑固とは、知性・理性が伴い、出処進退をわきまえていなければなりません。知性・理性が伴わない頑固は私的な「我」に過ぎず、またタイミングを計れなければその価値を失ってしまいます。

 

真の頑固とは、真に物事を守ることです。そのため頑固さの極みは沈黙となり、静かな表情となります。世の中に発揮しようとすれば、必ず孤独になります。孤独を恐れているようでは真の頑固・真の守りとはなりません。

 

真の頑固は、知性・理性に支えられてこそ ‘‘美’'となり、その結果として孤独の世界が生まれてくるのです。この孤独は、真の頑固に支えられてこそ、 真の孤独となり得るのです。

孤独とは・・・。調舒星(ちょうじょせい)

孤独とは、真の愛を生み出すものでなければなりません。そしてそれ以前に、人が真の孤独を得るためには、頑固な守りが支えていなければなりません。その支えがあってこそ、真の愛に辿り着くことができるのです。

 

孤独と聞けば、世の中から隔離された寂しい姿を思い浮かべるかもしれませんが、真の孤独とは世の中からの「逃げ」ではありません。

 

真の孤独とは、強い自我や欲を完全燃焼させてこそ得られるものです。完全燃焼をすれば、その先には虚無の世界しかありません。虚無の世界を所有していなければ真の孤独とは言えないのです。そこには寂しいとか人恋しいという心情はなく、ただただ「心の次元」が愛の世界へと移行していくだけです。

 

逆に考えれば、孤独に耐えられない人は、人を愛する資格はないとも言えるでしょう。真の孤独を得て、初めて真の愛・無償の愛を生み出すことができるのです。

愛とは   ・・・。禄存星(ろくぞんせい)

真の愛は孤独の中から生まれ、人間としての真の自尊心を形成する道筋でなければなりません。そこに愛の偉大さがあるのです。

 

愛が真の孤独・虚無の世界から生まれるということは、そのエネルギーは与えるだけで求めることはありません。しかし真の「愛」は真の「引力」となり、人間としての魅力が具わることになります。

 

そのため自分が求めなくても、自分へ戻ってくるエネルギーにもなります。

 

真の愛には損得も善悪もありません。愛ゆえの悪もあれば、愛ゆえの善もあります。そしてそれは見返りのない一方通行の奉仕でもあるのです。

 

また真の愛は理性が通じない世界です。一つ一つの行為に理論があるようでは真の愛とは言えません。だからこそ愛のために全てを犠牲にすることだってできるのです。

 

もし全てを犠牲にできない愛であれば、それが真の孤独に支えられていないからです。虚無の心に支えられている愛は、諸々の気を引き付けるための魅力になり、間接的には見返りがあります。その一つが真の「自尊心」でもあるのです。

自尊心とは・・・。牽牛星(けんぎゅうせい)

自尊心は、自信がなければ生まれてきません。強い自信に支えられている自尊心は、あえて発揮する必要もなく、発揮しなくても自然に具わっているものでなければなりません。

 

自信とは「信徳」であり、引力本能が最大に燃焼されることで必然的に生まれてくるものです。この信徳こそが真の愛です。そのため自信さえ持っていれば、自尊心は他人から与えられるものであり、自ら発揮するものではないのです。

 

例えば自尊心が傷つけられたとして、外に向かって誰かを攻撃することになれば、それは真の自尊心ではなくなります。それは単に己の弱さの表れでしかないのです。

 

真の自尊心を発揮するとすれば、それは己の心に向かってのみ。自尊心が傷つけられる原因は自分自身。自分の欠点を認め批判を素直に受け止める心こそが真の自尊心です。そしてそこからは改良や改革へと繋がっていくのです。

改革・忍耐とは・・・。龍高星(りゅうこうせい)

最大の自信に支えられた自尊心は、「改革」の精神を生み出します。その精神は常に冷静で、「忍耐」という行為となって表れます。

 

人間は何事においても、忍耐の中から新しい発想が生まれます。そしてそれまでの欠点や難点を知ることにもなり、それが改革の準備へと繋がっていきます。

 

忍耐という行為には、次の時代の到来を待つ心があり、諦めはありません。忍耐は前進であり、諦めは後退。前進する忍耐は、諸々の知恵を生み出すことができます。そして真の自尊心が支えているからこそ忍耐が発揮され、新しい知恵を創造することがで きるのです。

 

一般的に忍耐とは「静」であるように思われますが、前進する忍耐には動きがあります。忍 耐とは「動」であり「陽」。そのため忍耐から生まれる知恵は、世の中の常識を超え、新し い時代と新しい社会を創造するための改革へと繋がっていきます。

 

長い忍耐の時を経てこそ、真の改革を目指すことができるのです。忍耐の中で育てられた真の知恵は、真の「和合」を生み出すことになります。それは改革を成し得るための原動力にもなるのです。

和合とは・・・。石門星(せきもんせい)

忍耐を知らない「和合」は、真の和合とは言えません。忍耐の中で生まれる知恵に支えられた和合は、自分に合うとか合わないという問題ではなく、どんな人達とでも和合することができます。

 

この人とは合うがこの人とは合わないという場合は、そこに相手に対して与えるものと求めるものがあるからです。真の愛が心の中にあれば、与えるものはあっても求めるものはないはずです。

 

真の和合とは技術的な手段ではなく、時間をかけた忍耐の中で得た知恵が必要であり、自分に対する自尊心が必要になってきます。そこで初めて人と人との間に、心から手を組んでいける和合が生まれるのです。心が連動していなければ、それは和合ではありません。

 

更にその中では、精神的な向上に繋がることもあり、真の和合が完全に燃焼された時、「無為自然」の想念が生まれてくるのです。

生きるとは ・・・。鳳閣星(ほうかくせい)

「生きるとは何か」と一言で言っても、あまりにも大きく、簡単に答えられるものではありません。しかしあえて「生きる」ということを考えるなら、その根底には真の和合があるということを理解しておかなければなりません。

 

人間が真に生きようとする時、そこには必ず真の和合が存在します。真の和合が完全に燃焼された時、そこからは無為自然の想念と行為が生まれてきます。そこに達してこそ、真の生き方となるのです。

 

無為自然な姿とは、自分自身が特別に生きようとしなくても、世間が自然に生かしてくれるような姿です。そこに行き着くためには、持って生まれた内的なエネルギーを一度燃焼させる必要があります。 いわゆる魂(精神)の入れ換えです。

 

これは特別に何かをするということではなく、例えば趣味の世界や仕事の世界など、関わる世界の中で自己の内にあるエネルギーを完全燃焼させ「空」あるいは「無」にすることです。

 

「無」になるからこそ、人に対して何の衒い(てら)いもなくなり、「あるがまま」の姿で生きることができるのです。そして一度「無」になることで新たなエネルギーが徐々に入り込み、蓄積の世界へと繋がっていくのです。

家庭とは ・ ・・。司禄星(しろくせい)

家庭とは、人間がこの世において最初に自主性を持って作り出す最小集団です。この最小集団は、一人の男(陽)と一人の女(陰)によって成立する集団です。そしてそこに新しい生命が誕生し、人間の歴史が存続しているのです。

 

この最小集団が真の家庭を作り出すためには、各々が真に生きていなければなりません。生まれながらに所有しているエネルギーを、家庭を作る以前に完全に燃焼させておかなければ、真の家庭を築き上げることはできないのです。

 

真に生きるために、エネルギーを全て外に向かって放出し「空」になれば、そこから夫婦としての有形・無形の蓄積が始まります。

 

新たな蓄積は、夫婦としての歴史を築くことになります。夫婦愛とは蓄積の愛でもあるのです。そしてその蓄積は、子供へと伝わります。真に生き、真の家庭を築けば、そこから生まれてくるのは、社会に向かっての前進力、あるいは攻撃力であり、行動力にもなるのです。

行動とは・・・。車奇星 (しゃきせい)

人間は様々な事で、あるいは様々な世界で、様々な行動をします。それが本能的なものもあれば、知的なものもあります。しかし人間の行動とは、必ずしも論理的な行動ばかりではありません。

 

「行動とは」と一言で言っても、「生きる」と同様で非常に範囲が広くなります。ある意味宇宙的な視野が必要になるのかもしれません。しかし「真の行動」と考えた時、その根底には「真の蓄積」が支えていることを分かっていなければなりません。

 

起こした行動の善悪は別として、何らかの蓄積が充分になければ真の行動とは言えません。真の蓄積がない行動は、ただの「感情に走る」という行為にしかならないのです。

 

例えば、経済力を持って社会で地位を築こうとした時、それ以前に経済力に対する不満を、自分自身の中で大いに蓄積しておく必要があります。その蓄積が出発となり行動を開始すれば、大きな持続力のある行動となります。

 

人間は不満の蓄積から出発しなければ、真の行動とはなりません。そして真の蓄積から生まれた真の行動は、真の知恵を知ることになるのです。

知恵とは・・・。玉堂星(ぎょくどうせい)

人間は様々な知恵を持っていますが、知恵があるから人間だと言えるのかもしれません。そしてその本質とは何かと考えた時、確かな定義はありません。しかし算命学的に解釈すれば、人間の知恵だけが単独で独立してしまえば、それはすでに知恵ではなくなります。

 

本来知恵とは、何も分からない状態の中で、分からないがゆえに失敗し、痛い思いを経験して初めて湧き出てくるものです。そのため知恵を作り出すには何等かの行動(体験)が存在していなければなりません。

 

経験がなく、本から学んだり人から聞いたことだけで知恵を作り出そうとすれば、それは知識にしか過ぎません。しかし知識であっても、社会という現実の中で活かそうとすれば障害や壁にぶつかることもあります。その経験があれば、知識から前進することは確かです。

 

人間の知恵は、その裏側にある行動によって価値が生まれます。そして人生を歩む上において、利用できない知恵からは何の価値も生まれません。

 

また真の知恵は「動」「静」のバランスの上に成り立っています。動に偏り過ぎても、静に偏り過ぎても、それは真の知恵とはなりません。「中庸」の知恵こそが真の姿です。そして真の知恵は、真に自己を守る力となっていくのです。